YAMADA TAISHI’s diary

ゲームについてとか私の日記とか。このブログのあらゆるコードは好きにどうぞ。利用規約があるものは記事内のGitHubのRepositoryのリンクで貼られていると思うので、そちらを参照ください。

祖父は戦争に行った人だった

原爆投下の日の報道についてTwitterで流れているのを見てふと祖父の事を思い出した。
今年の1月、社会人として忙しくしている時に父から祖父が亡くなった報告をうけた。

祖父は第一人称が「僕」で身長が低くどこか可愛らしい見た目をしているが、いつもパワフルで力強い人。
驚くと「アゲ~~~ッ!」と声を出して目をまん丸にして驚く人だった。
そんな祖父について思い出せるうちに日記に書いておこうと思ったので、筆をとることにした。
私は祖父は大往生したため、満足した人生だっただろうと思う。私は個人的には悲しみは少なかった。
ただ強烈な祖父の周りの人が亡くなることにより世界のどこからも祖父のエピソードが消えてしまうのは悲しく思えた。
だから、ネットの片隅に走り書きで申し訳ないが書き残して置こうと思ったのだ。


祖父は私にとっては年老いていながら力強い人だった。
老いても、ヤギを育て小さな畑を持っていて力仕事をしたり、網を海に設置して漁をしたりなど、ほぼ自給自足の生活をしていて「うまかっちゃん」という九州のラーメンが好きだった。

小学生の時から高校になるまで、ほぼ毎年夏になると、祖父の住む奄美大島加計呂麻島に祖父の家まで泊まりに行ったものだ。
私はあまり行きたがらないときもあったのだが、父と姉二人で行っていた。(従兄弟もいて賑やかなときもあった)
珍しい昆虫やブルーのカワセミ、遠くからギャーギャーと聞こえるルリカケスの鳴き声、海の匂い。すべてが鮮明に思い出せるわけではないが、いくつも思い出すことがある。

祖父の住む集落はほぼ知り合いばかりで、帰るたびに各家からお小遣いを貰っていた。どの家でもお小遣いをお貰うため5万を超えることは珍しくなかった。
「〇〇(母、もしくは父の名前)の子か?」と気さくに話しかけてもらい、「知り合いのおばあさん達はこれでアイスでも食べなさい」と
海の風が吹き込む縁側に座らされ少し古いオレンジジュースとキャラクターの載った小さい封筒に入ったお金を渡される。
古い家特有の加齢臭のような匂いと線香と海の匂いが混ざり合う。
嫌いではない時間だった。

父について回り、様々な家に挨拶に向かう。
集落の9割はおばあさん、おじいさんしか住んでいない。
コンビニはなく、台風になると食料の備蓄で耐えるしかなくなる。GoogleMapで見ても道は正しく表示されていない。
そんなド田舎である。
祖父の家はその集落でも特に古く、汲み取り式便所で中を覗き込むと10や20で収まらないほどのゴキブリで埋め尽くされていて、お風呂はガスを使わない焚き火で沸かすタイプのお風呂だ。

そんなど田舎に帰っても現代人は特にすることはないが、父に釣りやモリ突き、船の運転を習ったり、キャンプをしたり、夕方になると海水浴を行うといった夏休みを毎回過ごすのである。
もっとも体力のない私はすぐにバテてしまうのだが。


いくつかの思い出を思い出すことが出来るが、その中で何故か印象に残っているのは祖父の原爆の日にテレビを見る様子である。
祖父は海釣りに行くと80歳を超えているにも関わらず当時中学生の私より勢いよく早く錨を上げるような人だったが、その原爆の日のテレビ中継の様子は熱心に静かに見守るのである。

どこか哀愁に包まれたような祖父の姿はなぜか脳裏に焼き付いている。

祖父はお酒が好きだった。
どんな年になってもお酒を飲んでいた。
年々弱くなって行ってたが、若い頃は焼酎1升を1晩に1人で飲み干してしまうほどだったという。
お酒が飲める人を俗にザルと呼ぶが、引っかかるところさえないということで輪と呼ばれていたそうだ。

祖父がお酒を飲むと毎回同じ話をする。
毎回話すがゆえに詳しい話は逆に覚えて居ないが、毎回戦争へ行った時の話をしていた。
誤っているかも知れないが思い出せる限りを書くと以下の内容だった。

戦争時代若かった祖父は徴兵され各国へ派遣されたそうである。
軍の中でも銃の腕の良かった祖父は腕を見込まれ注目されたお陰か、頭の良さを買われ戦場から離れて(多分軍師として)勉強することになるのだ。
しかし、戦争は激化し、ついに祖父も戦場へ行くことになり様々な国に派遣されることになる。
最後の戦場では小さな小隊の隊長に任命された。
神経をすり減らしながら、小隊を進めたらしい。

祖父は毎回「1人も人を殺さなかった」と自慢していたが、
部下には殺させてしまったようなのか、悔いているようでもあった。
話しぶりからなんとなくだが、亡くした部下も少なくないようだった。

そして、祖父が上記のエピソードを削ったとしても絶対に話すシーンがある。

終戦の話だ。

満州で小隊を進めている祖父は、大きな声で呼び止められる。
「小隊長殿~~~!」
何事かと腰を抜かしたそうだ。
「戦争は終わりましたぞ~~~~!」と日本が負けたことを知らされる。

いつもこのセリフを嬉しそうに祖父は話すので終戦したことはとても喜ばしいことだったのだなと思う。

そしてしみじみと「天皇陛下は悪くない、軍のエライ奴らに騙されとったんだ、軍のエライ奴らが一番悪いヤツらだったんだ、戦争は絶対にしたらいけない」という。

それがいつも祖父が話していたエピソードだ。
今思えば、どのぐらいエライ立場だったのかとか、その当時の様子はどうだったのかとか、色々聞けばよかったなとも思うが、
度々祖父宛に取材をしていた方が居たので、きっと語り継がれているだろうと思う。


そういえば、祖父が熱心に読んでいた漫画を思い出した。なぜ祖父が読んでいたのかなどは忘れていたが、原爆の日のテレビの中継を見ている時と同じような目をしていたのを覚えている。
祖父なりに思うところがあったのだろう。
確か、↓の漫画だ。祖父が読んでいた様子を見たのは一回だけだったし小学生のころだったが、なぜか覚えている。

www.amazon.co.jp


終戦後、祖父は電力会社として奄美大島の加計呂麻半島全土に電気を巡らせ、台風のたびに自転車とヘルメットとカッパを来て駆け回ったらしい。
70歳を超えても配線がどうなってるのか全てを把握しているのは祖父だけだったらしく、夏に遊びに行った時も雨が激しい日は知らない電力社員の人が来て祖父にお願いしている様子を見たことがあった。

祖父は優しかったが父や私の叔父にとっては怒ると手がつけれれない人だったらしい。
「なんだその言葉は!日本男児たり得ぬ言葉だ!叩き切ってくれる!」と激高し、いつも近くに置いていた軍刀を抜刀したそうだ。
まぁ、祖父の近くにいる祖母に「あんた何やってるの!帰るよ!」と怒鳴られると、すっと顔色が戻り「はい」と返事をすると納刀すると背中を小さくして帰ったそうだが。
(因みにその軍刀は父が大きくなる途中で錆びついて抜刀できなくなっていたそうだ。酔っ払って同じく激高し抜刀しようとして抜けない軍刀を抜こうとしてたとかなんとか。少し滑稽だ)


そんな祖父は私が奄美大島へ帰らなくなってからも、畑を荒らした猫と喧嘩をして激高した祖父が猫を鎌で殺したとか、
ボケてきたため老人ホームへ行ったが耐えられなくなって脱走したとか、とんでもないエピソードが出たりしていたので100歳までは生きるだろうと思っていたが、
100歳手前で亡くなってしまった。

きっと何だかんだ満足した人生だっただろうと思う。
変な文章になってしまったが、 祖父と戦争に出た部下たち、祖母が安らかであることを願う。